みんなから嫌われても平気な人がいます。とても強いし、羨ましいなあ、と思うのですが、ではなぜ逆に我々は「みんなに嫌われたくない」と思うのでしょうか。
「人から嫌われるかもしれないから、自分はこう思うけど言えない」とか、「なんとなくみんなの雰囲気に合わせてしまう」とか。
もしかして「みんなに嫌われても構わない」として生きている人の方が、自分自身に素直に生きているのでは?そして、普段から私たちが意識している“みんな”とは?
今回は「みんなに嫌われても平気な人」から学ぶ、“戦う処世術”についてご紹介します。
嫌われても仕方がない
私はよく、「あんたの顔がムカつく」と言われました。でも、私のこの顔は生まれつきですし、顔の好き嫌いなんて個人の自由ですから、「ムカつく、嫌い」などと言われても、「はあ、そうですか」としか言いようがありません。
まあ、この場合は、その人が単に気が立っていて、私に八つ当たりしていただけだとは思うのですが、なんとも失礼な話です。
このようなことがあると、「人って生きてるだけで、何もしなくても敵を作ることがあるんだな」と思います。自分では誰に対しても攻撃していませんが、「なんとなく」で嫌われるようなことがあるのであれば、全ての人から好かれることは無理な話です。
嫌われても平気でなければならない
人形のように、黙って座っているだけでも、それを見た人は個々に自由に「好き」だとか「嫌い」だとか、自由に感想を述べていきます。
どうやら、人から好かれる・嫌われるの割合は、個人差はあれど大体同じで(「なんとも思わない」とか「普通」「どうでもいい」も含めて)、人は必ず1割程度の人からは嫌われているのだそうです。
それは、その人が良い人だとか悪い人だ、ということは関係なしに、です。ということは、嫌いな人に好かれようと努力をしても無駄ですし、嫌われることに過敏に反応して怯えても意味はないのです。
咲いてる花を見て「きれい」と思う人も「邪魔」と思う人もいて、その花が「良いか、悪いか」ということは決めることができませんから、人から嫌われること=自分が悪い、と思わないことが大事です。
人から嫌われて良い気分はしませんが、誰がなんと言おうと、誰からどんな評価をされようと、あなたはあなたです。それ以上でも、それ以下でもありません。それが当たり前なのですから、平気でいられる=平常心を保つようにしましょう。
みんな違って当たり前
みんなと違うことを批難する人がいます、実際私も人と違うことをすると批難されました。これって何かに似てる!そう、洋服屋で言うところの「規格外サイズ」です。
洋服って売ってるサイズが決まっていて、ほとんどの人はMサイズなりLサイズを購入して着ることができます。では、XLサイズの人や、XXLサイズの人は?
大きいサイズの服を置いている店で購入しなければなりません。最近はサイズの幅が広い店も増えましたが、「ぴったりサイズの服となかなか出会えない」という人も中にはいるのではないでしょうか。
みんなと違う人を嫌う人は、嫌われることが怖い
みんながMサイズを着ていて、自分もMサイズを着ていると安心するでしょうか。どうやら、このような「集団に隠れて安心するタイプ」の人は多いです。
集団に隠れるタイプの人は、「自分は安全な場所にいるから大丈夫」と思っています。まるで、動物園で、檻の中の動物を見物している客の気分です。
そのため、好き勝手なことを言って、檻の中の人を批難します。「私はMサイズ!あなたは規格外サイズ!かわいそうね!」では、なぜ批難するのでしょうか。それは「自分が安全であることの証明が欲しいのに手に入らないから」です。
実は、この集団に隠れるタイプの人ほど、孤立することを極端に恐れ、人から嫌われることに恐怖心を抱いています。もっと簡単に言うと、人の視線を気にして、いつも怯えているのです。
集団に隠れるタイプの人を攻撃する方法は簡単です。「あなたみんなから嫌われてることに気づいていないの?」と一言添えるだけで、きっとガタガタとメンタルが崩れていきます。
誰かに嫌われることよりも、
誰かを嫌うことの方が怖いこと。
自分を見失って醜くなっていくのは、
誰かを嫌う方。— 男の恋愛講座 (@MTtda49nqfs5) 2017年9月24日
賢い人は武器を持つ
なぜ上記で「集団に隠れるタイプの人への攻撃方法」を書いたのかと言うと、「この方法で攻撃してください」という意味ではありません。相手の弱点を知っている、ということは、使わないにしろ武器になります。
もし集団に隠れるタイプの人から何かしらの攻撃を受けるようなことがあれば、「ああ、この人は恐るがあまりにむやみに噛み付いているんだな」と冷ややかな視線を送りましょう。
「みんな違ってみんないい」と金子みすゞの詩にもあるように、どんなサイズの服を着ていようといいのですから、“みんなと違う人を排除しよう”という動きに同調しないことが、自己肯定に繋がります。
みんなって誰?
「みんなと一緒じゃなきゃ嫌だ」と小学生のときは思っていました。女の子ってそうですよね。みんなが持ってるから私もほしい!と母親にねだったものでした。
では、その“みんな”って誰か、と言えば、同じクラスのAちゃんBちゃん…と名前が出てきたものですが、大人になると“みんな”というのは“世間一般”を指すのだな、と気がつきます。
小学生のときに「みんなと同じものがほしい」と思ったのは、「集団から取り残されないために」とか「仲間はずれにされないために」という、処世術だったのでしょう。
しかし、同じグループのCちゃんは、こう言いました。「私、お母さんに買ってもらえなかったから、いいの」。すると、“みんな”は途端にそれらの“流行”に目もくれなくなります。小学生の私が恐れてすがっていた“みんな”は、Cちゃんのたった一言で動いてしまったのです。
実体のない“みんな”を怖がるな
いじめっこ集団、というのがいますが、彼らは個人で呼び出して話をすると、意外といいやつばかりだったりします。しかし、なぜか集団になると、誰かひとりを標的にして攻撃します。
なぜか人は個人から団体になると安心感を覚えます。安全になるわけではないのですが、安全になったような錯覚に陥るのです。そのため“みんな”というのは、中身がコロコロ入れ替わる、元は空っぽの箱のようなものです。
しかも、触ろうとして近くに行くと見えなるので、雲のようです。雲は向こうから攻撃してくることはありません。風を起こせば霧散してしまう脆いものです。
実体のない“みんな”は、おそらく雰囲気や言葉で攻撃してきますが、本物のナイフを振り回したり、拳銃で撃ってくるようなことはありません。
そんなおばけみたいな存在に、もし嫌われたとしても、死ぬことはありません。“みんな”の中にいる人は、おばけに取り憑かれた人で、世の中には取り憑かれていない人もたくさん存在します。
どこの誰が“みんな”というおばけに取り憑かれているのか特定も難しいですが、もし戦う相手が“みんな”だとしたら、耳を塞いで目を閉じていれば、存在しないことと一緒です。
オリジナルを持たないと叩かれる時代が来る
みんなに嫌われたら、平気でいられないでしょうか。なぜでしょうか。もう二度とご飯が食べられなくなる?住む家がなくなる?通帳の残高がゼロになる?
その心配はありません。おそらく、「私はこんな考えを持っています!」とSNSで発信すれば、誰かが同意してくれます。つまり、“世の中の誰も味方してくれない”ということは、まずないでしょう。
それがたとえ、歪んだ考えであったとしても、同意してくれる一人や二人は出現します。もし、一回で同意を得られなかったら、何度でも発信すれば、いずれ見つかるでしょう。
世の中は敵ばかりだ!と思うより、「きっとこの広い世の中には、仲間が見つかる!」と信じていれば、目の前の数人に否定されても平気でいられる人になれます。
100人の敵と1人の仲間
仲間は多いほうがいいでしょうか。社会に出ると、人を利用してのし上がろうとするフレネミーな人たちがいますが、「私たち友達だよね」と言い合っている仲良しグループが意外とドロドロしているのはよくあることです。
そりゃ仲間は多いほうがいいでしょう。多くの人に賛同してもらえる、ということはパワーになります。でも、多くの賛同を得られないからと言って、“実現不可能”と決め付けるのは早いようです。
みんなに嫌われても平気な人は、誰よりも心強い味方を信じています。それが“自分”です。周囲に100人の敵がいても強くいられるのは、自分自身を味方につけているからです。
100人敵がいても1人味方がいると100人の仲間と同じくらいだなぁと思う。
だから、その人と逃げてもいいと思う。— 姉咲 (@korason_u) 2014年6月24日
うまく生きるより自分らしくあれ
他人や周囲に合わせて自分の形を変えて世間を渡っていく人をみると、「この人は処世術に長けているな」と思う反面、「じゃああなた自身はどうしたいの?」と思います。
流行の服を着ているうちはいいですが、いざオリジナルを試される瞬間がくると、小さく萎縮します。これからは、個性を求められる時代が来ます。
「あなたは、みんなと何が違うの?」とか「個性はないの?」と言われます。「みんなに嫌われたくない!」と思って個性を押し殺していると、何をしたかったのか忘れてしまいます。
「今日からみんなに嫌われても平気な人になる!」というのは難しいかもしれませんが、自分が正しいと思っている意見を堂々と発言できる人を目指していかなければ、逆に叩かれることになるということを意識しておいたほうがいいでしょう。
多くの人が器用ではありません。「自分は不器用だ」と思っています。そこから器用になることを目指すのではなく、不器用でも自分らしさを失わない人で有り続けることが、回り回って処世術になるのだろうと思います。